はじまりの東京キャラバン

2015年、東京キャラバンは「東京2020オリンピック・パラリンピック」の文化プログラムを先導する東京都のリーディングプロジェクトとしてスタート。
総監修・野田秀樹の発案による“文化混流”をコンセプトに、国境・言語・文化・表現ジャンルを超えた多種多様なアーティストたちの参加が実現。
2017年からは「東京2020公認文化オリンピアード」として本格始動。各土地の歴史や風土、人々が大切に伝承してきた文化を取り入れ、伝統芸能の担い手、多彩な表現者たちとの“文化サーカス”を展開し、7年間にわたって東京キャラバンならではの新しいパフォーマンスを創り上げてきた。本プロジェクトの意義と総括、文化の価値、未来への展望を野田に聞いた。

——野田さんは構想段階から、単に東京2020オリンピック・パラリンピックを迎えて終わるのではなく、その先の未来へと続いていくプロジェクトとして、この東京キャラバンを提唱されていました。

野田 オリンピック・パラリンピックとは、むしろ文化の一部分であって、文化はそこに内包されるものではない。つまり開催終了とともに終わるものでもない。だからオリンピック・パラリンピックが終わってもずっと続くべきものとして何が出来るかという考え方から構想を練りました。

——集大成として期待されていた「東京キャラバン in 駒沢 2021」(2021年8月21、22日)はコロナ禍の影響から開催中止となりました。ひとまずの区切りを迎えて、いま思うことは?

野田 新型コロナという誰もが全く予想してなかったものが最後に来てしまったのは東京キャラバンとしても不幸でした。新型コロナというのは人と人が“出会うな”というウイルスで、東京キャラバンは人と人が出会うためのもの。まさに対極ですから。感染が少し収まってきて、劇場に来ているお客さんの顔を見ても思うけど、多くの人たちがライブイベントを欲している。そういう意味でも、当面の財政的な問題はあるかもしれないけど、東京キャラバンはまた再開すべきだと私は思います。人と人、文化と文化が出会うということだけでなく、一つの共同体において、文化というものがどれだけ大事かという共通認識は持っておくべきでしょう。

——有事における文化の存在意義についてはどうお考えでしょうか。

野田 大変な時であればあるほど、文化がしっかりしていれば、人々の心や気持ちというのは困難を乗り切ることが出来る。経済が落ちた場合は特にそうです。そこがぐらついていると、共同体としての存立そのものが危うくなる。だからこそ、まあお金が出ればいいってものじゃないけれど、常に、確実に、公共予算は文化にもきちんと割くべきでしょう。この東京キャラバンには、出演者と観客の双方に確かな心の動きがあった。それを実感したからこそ、強くそう感じます。

——東京キャラバンの主催は東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京でした。いわば“公共の催事”ですが、公演は毎回どの土地でも自由な空気が感じられました。

野田 そこが東京キャラバンの一番面白かったところ。とかく公共のイベントっていうのはどうしても退屈なものになりがちじゃないですか。どんなに良いものを素晴らしい人たちが見せようとしても、そこで堅苦しい司会が出てきて「それではみなさん!」なんて括りでやってしまうと、わくわく感やどきどき感が削がれてしまう。公共のイベントの中に東京キャラバンのような取り組みがあるか無いかは、非常に大きな差があると思います。

——公開リハーサルや公開ワークショップというプロセスも開放的な空気を生み出しました。

野田 ロンドンの街に来る移動遊園地みたいなイメージが最初の発想でした。何日か前から何かごそごそし出して、大人から子供までが「お?何かあるの?」とわくわくしながら待って、だんだんと完成していくというね。今はそうでもないんだろうけど、昔は相撲部屋も地域に根付いていて、よく近所の人が稽古場の窓から覗いているようなイメージがあった。そういう緩さがあることで余所者でも地域と繋がることが出来る。まあ自分の舞台の時は見せないけどね(笑)。東京キャラバンの場合、東京以外では集客も一苦労だし、遮断せず事前に見てもらったほうが関心を持ってもらえるし足も運んでもらえるから。もっともリオでは多分現地の人もどこまでがリハでどこからが本番かも分からないまま観ていたと思うけど。現地のパフォーマーもみんな緩くて、本番もリハも関係ないし、きっかけ(動作の合図)なんて何も守ってくれなかったし(笑)。

——野田さんをはじめリーディングアーティストの方々が事前にその土地を訪れ、伝統芸能や歴史、風土について学ぶ機会もありました。

野田 回を重ねていくうちに自然とそうなりましたね。2015年の辺りは何からどうすればいいのかも分からない手探りの状態だったけど、徐々に色々と分かってきて。もっとも、事前学習があまりマニュアル化してしまうと面白くなくなってしまうと思うけど。

——多種多様な文化の担い手やアーティストが“文化混流”を果たしました。

野田 日本のとある分野で一流の人って、なかなかその分野の外に出ていかない。他の世界と交わることが怖いというわけじゃないんだろうけど、きっかけが無いのかもしれない。今回、どの伝統芸能の方からも「他の分野の方々と会うのがこんなにも面白いことだったなんて」という率直な感想をたくさん頂きました。またほとんどの方から「次があればぜひ参加したい」とも言ってもらえました。文化の“文”の字と交流の“交”という文字が似ている通りで、文化とは、人と人との交わりの中からしか生まれてこなかったはず。特に新しいものはそう。そこに人の心があって、その人たちが様々なことに気付いてくれた。その成果については最初に想像していた以上でした。

——伝統芸能の方々とのリハーサルやワークショップはいかがでしたか?

野田 演出する側の人間として、一番おっかない瞬間は「あの〜、これ、もう少し短くしてもらえますか?」という時(笑)。歴史のある芸能に対して、「こことここだけ使いたい」と言うわけですから。でも皆さん、最初は「あれ?」という顔をされても「ああ、じゃあやってみますか」と非常に寛容でしたね。普段と違う尺やスピードでやってみることを、とても面白がってくれました。

——東京から役者やアーティスト、アンサンブルの面々が各地を訪れるというスタイルについては?

野田 みんな東京にいる時よりも活き活きとする感じはあったでしょうね。東京キャラバンに限らず、旅とはそういうものだから。旅先では出だしのテンションから違うじゃないですか。そこにいるだけで、水を飲むことさえ日常とは異なる体験だから。しかも野外でやれる機会は、天気にさえ恵まれればその時点でもう7割方は成功している。野外で観るものって無条件に人の気持ちを上げるから。リオの公開リハーサルで生まれたスカパラの皆さんと津村禮次郎先生の掛け合いなんて屋外ライブの最たる醍醐味でしたね。秋田の熊谷和徳さん(タップダンサー)と宇治野宗輝さん(現代美術家)のリズム同士の掛け合いも面白かった。

——公演を観ると、異なる文化や伝統芸能が混ざり合う際、リズムや楽曲など音楽の要素が有効に機能した場面が多々あったように映りました。

野田 それはパフォーマーの方たちの言葉を聞きながら途中で見つけました。近くでリズムが鳴っていれば気になるし、元々底力があるパフォーマーばかりだからリズムさえ掴めれば何とかなるんだなって。

——野田さんのほかに、近藤良平さん、木ノ下裕一さん、糸井幸之介さん/深井順子さん/黒田育世さん、福原充則さんがそれぞれリーディングアーティストとして各地の演出を手掛けられました。

野田 私も自分の舞台もあるし、構想時はもっと公演数を増やすつもりだったからいろんな人が入ってくれたほうがいいだろうと。彼らは元々良い仕事をされてきた演出家だからお任せしました。近藤良平の八王子のを生で観たけど、彼独特の演出ですごく良かった。もっと回数を重ねればより良くなっていくはずです。

——野田さん自身が得られた収穫や刺激は?

野田 もちろんたくさんありました。無意識な吸収も色々あったと思います。仙台での経験は『足跡姫〜時代錯誤冬幽霊〜』(2016年)の演出に繋がりました。その土地ごとにいろんなことを考えさせられましたね。

——総監修の立場から反省や課題については?

野田 反省はないです!(笑)。こういうのは反省しちゃいけないものだから。間違いとか失敗も含めてのものですからね。ただ、一つの土地にもっと長くいたかったとか、もっと数を広げたかったとか、土地の人たちと交われる接点をもっと増やしたかったという思いはあります。

この国の文化が続いていくために

——東京キャラバンを通して日本人の特性について何か感じられたことはありますか?

野田 まずこれほど混じることに対してすぐ前向きになってくれるのは日本のアーティストやパフォーマーの特徴かもしれない。海外の人は、こんなにうまくさっさと「分かりました」と言わない気がする。イギリスの役者とか、30分やそこらで納得するとは思えない(笑)。

——地方の特色、特性の現状については?

野田 よくグローバル化なんて言われますが、それって実は文化にとっては最も駄目なもの。グローバル化って、要はざっくりアメリカ化するということであって、本当はどの土地に行っても同じような眺めになるのは良くないし、世界のそこここの地方や地域が異なる文化を持っていなくちゃおかしい。違うからこそ文化は面白いわけだ。例えば秋田の竿燈を見て、俺、ちょっと演出は無理だなと思ったんですね。あの高さの場所でものすごいクオリティを発揮している時に、低い場所でごちゃごちゃと何かを見せるのはよくないなって。やるとしたら、客が見上げている先の空高くで、何か一瞬やってみせるくらいかな。でも予算的にそれは難しかった。だから竿燈と何かを混ぜたりしないほうがいいと思った。そういうものもあるわけ。それもこうした機会があって気付けることだし。交わる場を通じて、刺激や気付きを得て、自分の地方の特色ある文化を如何にそのまま守り続け、次の世代に伝えていくか。それを意識していくことも文化にとっては非常に重要です。

——理想的な文化混流のために求められることとは何でしょうか?

野田 どの文化も“点”としてはとても強いわけです。例えば、東京で今晩どれほどの数のパフォーマンスが劇場で行われているか。でもそれは点であって互いが全く結ばれてない。1960、70、80年代と東京の、特に若者の文化が元気だった頃は、そこがもっと結ばれていた。自分の分野じゃない文化でも、例えば私の世代なら日比野克彦さんを知っていたし、坂本龍一さんや桑田佳祐さんが出てきた頃も「ああ、あっちはあそこでああいうことをやっているのか」と分かっていた。でも今はそれぞれの点は、それぞれすごく盛り上がっているだけ。グローバル化の中、地方の文化や伝統芸能が持つ点としての強さがどんどん薄れてしまうことへの危惧があります。クオリティ面からの意味合いも含めて、点としての強い文化を維持し、それらが線を描き、混ざり合っていけるような環境づくりが必要です。

——地方の文化や伝統芸能が“点としての強さ”を維持していくためには?

野田 場所の提供、あとは自分の携わる文化にプライドを感じていただくこと、つまりそういう場の提供が必要なんじゃないかなと。プライドと言っても大袈裟なことではなく、ほんのちょっとしたことなんだよね。私が29歳の頃、初めて商業演劇(※『野田秀樹の十二夜』1986年)を演出した時、かつて真田広之さんも所属していたジャパンアクションクラブ(現:ジャパンアクションエンタープライズ)から25名ぐらいをアンサンブル的に使ったんです。
当時、彼らは自分たちのオリンピック選手並みに高い身体技能にまだ誇りを持っていなかった。そこで「お前ら本当にすごいんだよ?」という話から始めてね。大地真央さんが宝塚を辞めて最初の舞台だったんだけど、彼らがビュンビュン飛んだら観客からどわっと拍手が沸いて。それこそあの大地真央に負けないくらいの拍手をもらって、そこから自信を付けた。スターに負けない拍手をもらうということはとても大きい。今回も相馬の若い獅子舞の方々は、最初、自分たちのやっていることにあまり誇りを感じていないように見えた。あんなにすごいことをやっていて面白いのに。でもそこにほんのちょっと別の力が加わることで途端に活気づく。パフォーマーというのは俺も含めて馬鹿ですから(笑)、拍手さえもらえればその気になるし、煽てられたら木にだって登るんです。お金の問題じゃない。表現する者にとって拍手や褒め言葉がいかに大事なものなのか。それを地方の文化や伝統芸能に携わる方々や、観客となる皆さんにもっとお伝えしたいですね。

——今後の東京キャラバンについての展望をお聞かせください。

野田 最初にも話した通り、とにかく続けることが何よりも大事です。いかんせん予算はかかるものだし、商業的な興行でもないので黒字になるわけじゃない。今後の行政がこういう取り組みに対してどう理解を示してくださるかに懸かってくる。一方で、今回の東京キャラバンが素地であるということをきちんと明示しつつ、これまでとは異なる形態で続けるという可能性もあるかもしれない。いずれにせよ長期的な公共からのバックアップを強く希望します。

(取材・文/内田正樹)

一覧へ戻る