2017年度からは野田秀樹が総監修として、その年ごとのテーマを創出。
様々なジャンルから東京キャラバンを導くリーディングアーティストたちを迎え、テーマの下、全国各地で唯一無二のクリエイションを発揮した。

——どんな思いで東京キャラバンに臨まれましたか。

木ノ下 東京キャラバンのリーディングアーティストをさせていただくに当たっては“地域”という言葉が大きかったですね。
東京キャラバンはオリンピック・パラリンピックに向けた東京都の文化プログラムですが、僕は「オリンピックを本当に今、やるべきなのか」と考えていました。パンデミック以前の東京は、僕が拠点にしている京都から見ると「なんか盛り上がってるな」という感じで。その盛り上がりは地域に共有されていないとも思っていました。東京キャラバンが、東京の中のみで、アーティストがただオリンピックを盛り上げるものなら興味を持てなかったかもしれません。でも、各地に行って現地のアーティストと創作し、交流が生まれる、東京を離れて地域に還元できる枠組みだと教えていただき、それならやってみたいと思ったんです。
僕は和歌山出身で、手軽に芝居が見られるような都市型の文化や情報が潤沢にはない環境でした。一方で情報がない分、能動的に情報を取りに行くという良い面も当然あります。そうした体験を少なからずしてきて地域と文化芸術の在り方というものに興味があったので、そこに対してなら何かできるかもしれないと思いました。

——高知、富山の文化、人に触れてどのようなことを感じましたか。

木ノ下 高知と僕のふるさとの和歌山は、黒潮文化で繋がっていて非常に近いものを感じました。例えば食文化をみても、どちらも名物は鰹節。例えば、学校の教室に張ってある日本地図は県境に線が引いてあったり、色分けされていたりしますが、文化には線引きはなく、重なり合い、水彩画みたいに色が混じり合っている。日本文化はそうした複雑なあわいでできていることが東京キャラバンを通じて見えてきました。
高知の方たちから感じたのはいろんなものを受け入れるフレンドリーなマインドです。作品を創る上でもエネルギーを出し惜しみしない。富山で出会った方たちからは、静かな情熱、地に足の着いた雰囲気を感じました。一つ一つの営みを誇りを持って行い、一朝一夕にはできない実りをもたらしている印象です。

——土地のイメージをどのようにつかみ、作品を構築したのでしょうか。

木ノ下 高知ではアーティストたちが乗る大きな“船”を作ろうと思って、“船頭”を(ダンサー・振付家の)北尾(亘)君にお願いしました。北尾君ならリーダーシップを発揮しつつ、いろんな人と交じり合いながらの創作を楽しんでもらえると思ったからです。“船”となる物語をどうするか。紀貫之の『土佐日記』を読んだり、高知が育んだ人を通じて土壌に迫ろうと寺田寅彦、牧野富太郎といった方々について調べたりして、何らかの事情で土地を離れないといけなくなった人たちの乗る船、というストーリーラインを描きました。
翌年の富山は、北尾君と話す中で、高知の続編のようなイメージで、船が行き着いた先という位置付けで作りました。富山にまつわる信仰をリサーチして立山信仰、立山曼荼羅を知り、新天地で暮らし始め、文明が生まれていく歴史のようなものを曼荼羅形式で描こうと考えました。諸国に薬を売り歩いた行商の文化で知られた富山の人々、立山曼荼羅の絵解きも、信仰を広めるため各地を巡っていました。物資も宗教も“キャラバン”していたんですよね。2カ所を通じて、土地を離れていく高知と、行き着いた先の富山。そこで国をつくり、またキャラバンしていくという流れになりました。リーディングアーティストは土地をすくいとって作品にしますが、より深い場所まで掘り下げて土地をリーディング(Reading)、読み込むことがキーだと感じました。

——現地のアーティストの方々との交流の中でどのような気付きがありましたか。

木ノ下 高知でご一緒した女優の浜田あゆみさんのご実家は土佐和紙を製造していて、浜田さん自身和紙と演劇を使ったワークショップを行い、パフォーマンスに結びつける活動をされています。浜田さんといえば、子供向けワークショップを見学させていただいていた時に忘れ難い瞬間があって。僕にも「一緒にやりましょう」と声を掛けてくださったのですが、僕はすぐに動けなかったんです。コンマ何秒の、ほんの一瞬だと思いますが、躊躇したんですよね。その時、無意識に自分は“見る側”浜田さんは“やる側”という区別をしてしまっていたことを自覚したんです。自分でも気が付いていなかった心の恥部を見せられたような気がして、すごくショックでした。そんな無意識の線引きや固定観念を、東京キャラバンはどんどん崩してくれた。そういう意味でも東京キャラバンは稀有な体験をたくさんさせてくれました。
富山の音楽家・太田豊さんやパフォーマーハルキさんたちのアーティストとしての在り方にも感銘を受けました。地域に密着しながら全国で活躍し、高みを目指し続ける。地域性と全国区での活動の両方を同時に大事にするのは実はなかなか難しい。北尾君も「そこにチャレンジし、成功されているのはすごく励みになる」と話していました。同時に、合唱やダンスなど地域のサークルに所属して長く活動してらっしゃる方々も素晴らしい。職業にしていなくとも、しっかり地域の文化を担ってらっしゃいます。僕たちはその上澄みで生活させてもらっているけれど、土壌を耕し、文化全体のポテンシャルをぐっと押し上げているのはそうした方たちだと思いました。

——東京キャラバンをきっかけにアーティスト同士の交流が生まれました。

木ノ下 北尾君と浜田さんの交流が始まったり、雅楽のチームが浜田さんに楽器に使う和紙の相談をしたり、山田太鼓の皆さんがカポエイラとのセッションを楽しんで、次に繋げたいと思ってくださったりと新しい化学反応が起きたんです。同じ土地でも、出会いそうで出会わない文化を、僕たちのようなよそ者が“混ぜっ返す”ことって大事なんですよね。

——ご自身の表現活動と東京キャラバンに通じるものは何でしょうか。

木ノ下 僕が補綴という仕事で一貫して考えているのは、古典の初演当時の観客の心の動きと同質のものを現代人も受け取ることができるようにするにはどうすればいいか、ということです。古典芸能は、その時代の人が何を悲しいと思っていたか、何が大事だと思っていたか、何を面白いと思っていたかが刻まれた心的アーカイブ。それを現代に蘇らせてみようと常に考えています。東京キャラバンで一番役に立ったのはその点ですね。土地の人が何を悲しみ、何に耐え、何を喜びとしてきたか、文化から読み取ろうとしました。例えば高知の人たちはとても明るいけれど、土地には台風や豪雨など災害の歴史がずっとあって、その中での明るさだったりするんですよね。

——東京キャラバン、その後のコロナ禍を通じ、改めて“文化”についてどのように考えていらっしゃいますか。

木ノ下 東京キャラバンでは、作品に反映するか分からないけれど、いろんな場所を訪れて見聞きした。いわば“不要不急”のこともたくさんしました。作品を作るのは大きな目標でしたが、過程をすごく大事にしていました。
コロナ禍で1回目の緊急事態宣言の時に読んだ菅原孝標女の『更級日記』がとても印象的で。作者は少女時代、源氏物語が大好きだったんですが、乳母や女友達を疫病で亡くして物語への興味を一切失うんです。その後作者は、心配した母親が与えてくれた本をむさぼるように読んで「おのづから慰みゆく」(自然と慰められてゆく)。未曽有の出来事で文化にアンテナが張れないほど落ち込む、でもその傷を癒やすために文化が必要というエピソードで、災厄に直面した当事者と文化芸術の在り方を象徴的に示していると思いました。
文化って「慰みゆく」ものだから、慰められる人がいる限り、作り続けなければいけない。同時に文化は不要不急。だからこそいい、だからこそ大事だと思うんです。すぐに役立つものって、すぐに役立たなくなるものってことですから。

(取材・文/白坂美季[共同通信社文化部])

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